「許し」ってやつを身を以て学んでみた(3)

泉の日記帳

こちらは私が実際に心理学やカウンセリングを通して“ひと皮むけた!”と実感できたお話です。
できるだけわかりやすいように…!と熱が入りすぎて、つい長くなってしまったのですが、私の経験が少しでもお役に立ちましたらとても嬉しいです。

2からの続きです
 
(3)は「より深い相手への許し」に取り組むことで得られる、さらに大きな恩恵のお話です。

相手を許せないと感じる時、当然私たちは「自分は被害者で相手は加害者だ」と感じています。
ですがその意識を持ち続けている限り、妥協や諦めはできても「相手を許す(=自分が本当に楽になる)」ということにはつながらないのですね…。

どうしても許せない人を許すには、今までとは違った物事の見方が必要になります。
それは、
・相手はどうしてこんなことをせざるを得なかったのか?
・相手にどんな事情や苦しみがあったのか、本当はどうしたかったのか?
といった、「相手を深く理解する」ということが必要になるわけです。
 
それは、自分の中に成熟さを育てて大人になるということでもあり、同時に「相手から受けた心の傷を癒すこと」にも繋がります。相手を理解し許すことで、自分自身が「被害者」の立場から降りて、心理的に自由になれるのです。

もちろん、今まで許せなかった相手を許そうというのですから、それなりに時間がかかったり、たくさんの葛藤が生まれたりもします。現実的な話で考えると、誰も彼もの事情を理解して許す必要はないのかもしれません。
ただ、「ここぞ!」という関係性の相手の場合は、この許しに取り組むことで本当に楽になれる、と私も実感したので、この恩恵のお話をさせていただければと思います。

*
私自身が、「被害者」ではなくなる解放感を実感した、ある出来事がありました。
 
私には長い間、母の昔の行動で許せないことがありました。
もともと母に対しては「思うように愛してくれなかった」という怒りを持っていたのですが(これまた色々長いので今回は割愛いたします)、「こんな母だから許せないんだ!」と母に怒っていた象徴のような出来事です。
 
小学校の中学年ごろの話です。
ある明け方、私は呼吸が苦しくて目が覚めました。息が思うようにできなくて、気管からほんの少ししか空気が通ってくれないのです。

焦った私は横に寝ていた母を起こします。
子どもの私は自分の状況を上手く言葉にできず、「喉が苦しい、息が苦しい」と言いました。
しかし母は、そんな娘の一大事に、「うがいして寝なさい」とたった一言を返して、なんとそのまま寝てしまったのです…。
結局その後、症状が収まるまでの3時間ほど、私は1人で不安と息苦しさに耐えていました。(当時の私にはそれ以上、母に強く訴えることはできなかったのです)
 
後からわかったことですが、その症状は小児喘息の発作でした。(そりゃ苦しいわけです…)
病院で診断を受けるとさすがに母の対応も変わりましたが、私は「お母さんは私が死にそうだったのに無視した! 他人の医者が言うことは信じるのに!!」と、心の中で母を責めました。

そして更にその後、私が謝って欲しくて何度かその話を持ち出すたびに、母は謝るどころか「今更そんなこと言わないで!」と逆ギレする始末。そのことでより一層、私は母に対して「こんな母親だから許せないんだ!」と怒りを強めたのです。
 
大人になっても、何かのきっかけでそのことを思い出した時は、いつも生々しい悔しさや悲しみが湧いてきて涙が流れました。まさに私は「小さくて何もできない無力な被害者」に戻って、絶望的な気持ちを感じ続けていたのです。
 
ですが心理学を学び始め、私の視点に変化が起きます。「母は、どうして娘の一大事に親身になれなかったのか」。そんなことを考え始めたのです。
 
母は、私を余裕のある環境で育てられたわけではありませんでした。祖父母を含む6人家族の食事や洗濯を一人でこなし、パートもして、さらに同居する両親とは喧嘩が絶えない。夫である私の父も家事育児を何もしない「昭和の男」。
今思えば、心身ともに疲れ切って、その日をギリギリ乗り切るよう毎日だったろうと思います。
 
私も子を持つ母になったこともあり、「お母さんも大変だったのかも…?」という気持ちが生まれ始めてきたのです。
しかし。あろうことか、それと同時に出てくるのは、何とあの母への「罪悪感」なのでした。

母への許しが進んで自動的に母への怒りも緩み、蓋をされていた罪悪感が出てきたわけです。
「あんなに大変だった母を、私は何度も嫌味いっぱいに責めたよなぁ…。私が自分の子どもに同じことを言われたら、どんなに辛いだろうか…。そりゃ、どんだけ大変だったと思ってるんだ!何も知らないくせに!って言いたくなるよなぁ…」今度はそんな気持ちで悶えます。

この時点で起きたのは、心理的な加害者と被害者の逆転です。
今まで自分が完全に正しいと思って相手を責めまくってきた分だけ、今度は自分が何も知らない癖に散々母を悪者にした加害者のような気持ちになってしまったのですね…。
(相手のことを強く加害者にするほど、自分が被害者を降りる時にこの「罪悪感」が出てきて許しへの抵抗が強くなるように思います。)

これに対する処方箋は「母のことも自分のことも、まるっと許す」ということでした。
「お母さんも余裕がなかったし、私もすごく悲しかったし、だからまぁ2人ともしゃあないよね〜」、最終的にはそんなふうに思えて実は加害者も被害者もなかったんだとわかった時に、私は心の底から軽やかな気持ちになることができたのです。
(このことをきっかけに、徐々に母に対する積もり積もったわだかまりも溶けてゆきました)

 *

許せなかった相手を理解して許した時、私たちは同時に「あんな奴をも許せる器の大きさ」を自分に許しています。これが、許しの一番大きな恩恵だと私は感じています。

目の前の問題を使って自分をひと回り大きな人間にしてあげることが「許し」の本質だともいえるんですね。ひとつ、誰かを許して得た器の大きさは、他の問題や人間関係にも応用ができるんです。
そのため、問題だと感じることが減ったり、問題を乗り越えやすくなったりと、生きるのが楽になります。
(もちろん私もまだまだ小さい人間なのですが、色々なことを許せるようになって以前よりは楽に生きられています)

 
人は誰かを許せない時、自分に対して「そんな神様のようになる必要なんてない、あんな酷いやつ、バチが当たれと思うのが常識だ!」というエゴの声に、つい引っ張られがちです。
(「エゴ」とは、より良い自分に変化することを阻む意識のことです)
 
ですが、この声を聞いている限り嫌な気分は消えず、相手と自分を心の中で罰し続けて罪悪感に苦しむ、という状態から抜けることができないのです。

誰かを許せないという気持ちは、必ずそこに罪悪感を生み心理的な葛藤や問題を作り出します。
「倫理的にいけないから」「許せない自分は未熟だから」という義務的な理由ではなく、「自分を苦しめる罪悪感を手放して幸せになるため」にあるのが「許し」です。

心理学で問題を解決する時に大切なことは、それが「正しいか正しくないか」よりも「幸せかどうか」という視点です。
たとえ「許せない気持ち」に正当な理由があるとしても(むしろ理由がない怒りなんてないですよね)、その怒りや恨みを持ち続けることは、自分が幸せになることよりも価値があるのだろうか…?
そんなふうに考えてみてほしいと思います。