「許し」ってやつを身を以て学んでみた(1)

泉の日記帳

こちらは私が実際に心理学やカウンセリングを通して“ひと皮むけた!”と実感できたお話です。
できるだけわかりやすいように…!と熱が入りすぎて、つい長くなってしまったのですが、私の経験が少しでもお役に立ちましたらとても嬉しいです。

心理学を使って心を癒し、苦しみから抜けたり問題を解決するために大切な考え方の一つ、それが「許し」です。
心理学を学んだ人なら、もう耳タコの言葉かもしれません。

 
一般的には、誰か自分以外の人を許す・許さないという意味合いで使われることが多いかと思います。
ですが、心理学での許しとは、本質的にはすべて自分自身への許しということになります。
 
…本質的にはそうなのですが、わかりづらいので、まずは「許し」を2種類に分けて考えてみます。
 
*
 
1つ目は、「自分への許可」という意味の許し
・何でも一人で抱え込む自分に、人に頼ることを許す
・ついハードワークをしてしまう自分に、休むことを許す
といったことです。
 
人は自分に対して、助けを求めることや休むことを許さずに生きていると、どんどん自分を追い込みます。
そして「世の中の誰も自分を助けてくれない」という、心理的にひとりぼっちの世界を自ら作ってしまいます。

そのような時、楽になるためにはこの「自分への許可」が必要になるんですね。
 
私自身、以前は何でも自分で抱え込み、人に頼ることができずに苦しむタイプでした。
たとえば、我が家には子どもがいて、私も夫も仕事をしています。
ある時、子どもが熱を出して数日間、看病と子守のために仕事も家事も思うようにできないことがありました。

予定外の事態なので、職場の上司や夫に助けを求めれば良いことなのですが、私はそれを「どちらも私の役目なんだから、自分が何とかしなければ!」と思い込んでいたのです。(何をしてたんだろうと今では思うのですが…^^;)
 
迷惑をかけたくないと、上司にも夫にも「大丈夫!」と言い続けますが、溜まってゆく仕事や家事に焦りが募ります(リモートワークなので一応、子どもを見ながら仕事はできるのです)。
それでも私は「相手が声を掛けてくれるまでは自分で頑張らなくては」と頑なに1人で抱え込んでいました。
 
その時、私の心の中は完全に「孤立無援」
本来、気づかれないなら自分からヘルプを出せば良いのですが、なぜ、私はこんなにも「助けて」が言えなかったのでしょうか。
 
私を含め自分を追い込みやすい人は「完璧じゃない自分など価値がない、役立たずでは受け入れてもらえない」という強い恐れの観念(思い込み)を持っていることが多くあります。
これを「無価値感」といいますが、有能な自分じゃないと価値はないという思いから、頼る・休むといった選択肢を、強く禁止してしまうのです。
 
ですからこのような場合は、原因となっている無価値感を癒したり、周りからの愛や思いを受け取りなおすことで、自分自身に頼ったり休んだりすることを許せるようになります。
(と、言うのは簡単ですが、実際に無価値観を癒すというのはめちゃめちゃ大変!だったのが私の実感です…。)

私も色々な人の助けを借りて、徐々に「1人でやらなくても良い、周りを頼っても良い」と、自分に対して頼ることを許せるようになりました。

そしていざ、周りにヘルプを出してみると、職場のみんなも友達も夫も、もちろん私を役立たずと責めたりなどせず、快く助けてくれたのでした。
(ここで相手にも余裕のない時には、期待外れのリアクションが返ってくることがあります。そのような時は、相手の状況を理解したり関係性を見直したり、別のアプローチが必要になります。)
 
 
*
 
 
そして2つ目は「自分以外の誰かを許す」という許しです。
 
・自分に酷いことをした親を許す
・自分を傷つけたパートナーを許す
など、自分に加害した(と捉えている)誰かを許すことです。
 
おそらく、1つ目の自分への許可よりも、この2つ目の許しの方に、とても強い抵抗感をお持ちになる方が多いのではないかと思います。
 
そもそも。なぜ、自分に対して酷いことをした相手を許さなければならないのでしょうか。
そして、この「相手を許すこと」が、なぜ「自分自身への許し」につながるのでしょうか。
 
2に続きます