こちらは私が実際に心理学やカウンセリングを通して“ひと皮むけた!”と実感できたお話です。
できるだけわかりやすいように…!と熱が入りすぎて、つい長くなってしまったのですが、私の経験が少しでもお役に立ちましたらとても嬉しいです。
(1からの続きです)
今から8年前、94歳で他界した祖母は、大正生まれで戦争を体験した世代でした。子ども4人を抱えて前の夫と離婚し、終戦後は食べ物もろくに手に入らず、自分でおせんべいを焼いて売って食い繋いだこともあったそうです。(子どもの頃は「また昔の自慢話か」と思っていましたが、それがどれだけ大変か、今なら想像できます。)女手ひとつで子どもたちと戦後を生き抜き、やがて10歳年下の祖父と再婚するという選択は、当時の女性としては、かなり常識から外れた生き方だったことでしょう。今となっては、当時の祖母の気持ちはわかりませんが、「周りに押し切られて…」という言葉が本当なら、気の強い祖母がそんな結婚を選ぶ程、生活が追い詰められていたのでしょう。
もしかしたら祖母の着道楽は、昔の苦労を取り返すために、自分の好きなものに素直になった結果かもしれません(それでも保険を解約して買うのはどうかと思いますが…)。
そしてなんと、祖母は70歳を超えてからハワイに2度も行っていました。そのお金はまたもやどこから…?と思わなくもないのですが笑、これまた相当な行動力です。
カウンセラーは、このような行動力や好きなものに猛進する姿、自由に生きるエネルギーのようなものを、祖母と私の中に見てくれて、「おばあさんと智子さんは似ているね」という言葉をくれたのでした。そして、こうも言いました。
「智子さんは、お婆さんのようになりたくない!と思って、自分の能力を抑えたり、自由に生きることを制限していると思う。お婆さんのエネルギーを良いものとして受け取れば、もっとのびのびと自分を表現できるよ」と。
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それからの私は少しずつ、祖母のことを今までとは違う見方で考えることが増えました。
身勝手に見える振る舞いは、もしかしたら今まで自分の判断で生き抜いてきた自信なのかもしれない。自分が良いと思う信仰を強要してしまったのは、それだけ辛い境遇にいた自分が救われたからなのかもしれない。
家族も一緒に幸せにしたいという祖母なりの愛や、同じものを共有したいという寂しさだったのかもしれない。
もちろん、やり方がまずかっただろう…と思うことはたくさんあります。交通ルールは守った方が良いですし、他の人の価値観も尊重してくれていたら、家族はもっと穏やかに過ごせたはずですから…。
それでも、ただの傍若無人な身勝手ばばあとしか見ていなかった祖母の、寂しさや弱さを少しだけ理解でき、祖母は私の知らないところでたくさんの苦労を乗り越えて老後を生きていたのだと思うと、その強さや生きるエネルギーに対して、「あの婆ちゃん、めちゃくちゃだけど少しカッコ良かったのかも…??」なんて思うようにもなりました。
そうすると不思議なことに、今までは記憶の彼方に追いやられていた、私が祖母からもらったものを思い出したのです。
私は着物が好きで趣味のひとつなのですが、着付けの教室に通ったことがありません。何となく、実家にいる時から着ていたのですが、これは間違いなく祖母の影響でした。私の母は着物を着ない人なので、私に着付けを教えたのは、あの着道楽の祖母しかいないのです。その後、実家に帰省した時に箪笥を見ると、そこには祖母が「大人になった私が着るために」と遺してくれた、仕立ての良い着物がたくさんありました。これは紛れもなく、祖母から私への愛でした。
そして次第に、着物のように目に見えるものだけでなく、あの時カウンセラーが見てくれた、行動力や好きなことに突き進むエネルギー、自由に生きる力など、目には見えない色々なルーツを、私は確かに祖母から受け取っていると感じるようになりました。(ちなみに、私が今、好きなことに猛進しながらも家庭と調和できているのは、きっと私の母から受け継いだ「協調性」のおかげです。母は祖母を反面教師にして、とても協調性のある人になりました^^;)
私の中で祖母のイメージは「考えたくもない身勝手ばばあ」から、「エネルギーの塊のような破天荒ばばあ」に変わってゆきました。
そして、私が祖母のことを否定しなくなった一番の恩恵は、これもあの時のカウンセラーの言葉通り、私が以前よりものびのびと好きなことをして、自由に自分を表現できるようになったことです。
確かに私の中にはずっと、「自分の好きなように生きたら祖母のようになってしまう!」という気持ちがあったのです。それはずっと、私の心の深いところにあり、私が自分らしくいようとする時に、恐れや罪悪感を感じさせてブレーキを掛けていました。
これは「投影」という心の法則なのですが、私が自由に生きる象徴だと感じている祖母のことを「あの身勝手ばばあ!」と責めて嫌っている度合いだけ、自分がもしそうなったら、同じように周りから責めて嫌われると思う心理がはたらきます。(心の深い部分には細かい理屈が通用しないようで、とてもシンプルに「自由に生きると祖母と同じ目に遭ってしまう」と認識するのです。)
親をはじめとした関係性が近い人に対しては依存が生まれやすく、「本当はこうしてくれるべきなのに、してくれなかった」という否定や恨みつらみも生まれやすいかと思います。けれども、もとの家族を否定することは、自分の一部を否定することでもあります。私はずっと、祖母の自由なエネルギーを「身勝手だ!」と否定することで、自分自身を自由に表現することを許せませんでした。
倫理的に悪いから…ということではなく、「自分のルーツを受け取り、愛するチャレンジ」として、否定している家族を理解してみることは、とても大きな恩恵を受け取れるチャンスにもなるのです。